日本が先進国の仲間入りを果たして久しいですがそれと同時にスポーツのレベルも世界で通用するレベルに達していると言えます。
特に野球はWBCやオリンピックでも世界の中でも日本は強豪国と言えるでしょう。
しかしもう一方の人気スポーツであるサッカーの存在も忘れてはなりません。
今でこそワールドカップに当たり前のように出場できるようになった日本のサッカーですが、ここに至るまでに様々な苦労話が絶えません。
今回は日本のサッカーの歴史を明治時代から現代に至るまで、日本代表の成長過程なども合わせて解説していきます!
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日本にサッカーが伝来したのはいつ?
日本にサッカーが伝来してきたのは今から150年以上も前に遡ります。
その起源に関しては様々な説がありますが、日本サッカー協会が公式に支持している説はイギリス海軍のダグラス少佐が教えたというものです。
イングランドサッカー協会(The FA)創設から10年後、英国海軍教官団のA.L.ダグラス少佐と海軍将兵が来日。東京築地の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)で日本人の海軍軍人に訓練の 余暇としてサッカーを教えた
引用元:http://www.jfa.jp/about_jfa/history/#1950
Wikipediaを調べれば他にもいろいろな説がありますが、いずれも日本がちょうど江戸時代から明治時代になった直後の時期にあたります。
野球が日本に伝来してきたのが1870年頃なので実はほとんど変わりません。
その後の富国強兵の一環としてもサッカーの競技は学校の体育の教育に取り入れられました。
ただしこの頃はまだサッカーと言う呼び名が定着していなかった時代です。
サッカーではなく英語の”Association Football”と日本語の”蹴球”という言葉を交えて、ア式蹴球という呼び方だったそうです。
早稲田や東京、一橋大学などは未だにこの時の名残があるようでサッカー部の名称が「ア式蹴球部」となっています。
※これ以外にも英語のSoccerをそのまま読んだソッカーという呼び方もあったようです。慶應義塾大学のサッカー部が「ソッカー部」となっているのはこれの名残です。
大昔にあったサッカーとは?
日本にサッカーが伝来したのが明治時代となっていますが、実はそれよりも遥か昔にサッカーに似た競技が既に日本にありました。
その競技とは蹴鞠で、平安時代を中心に貴族の間で大流行しました。
足でボール(鞠)を蹴るという点ではサッカーと共通していますが、違うのは勝敗の付け方です。
サッカーの場合は相手チームのゴールに以下に多くのゴールを奪うかを競うゲームですが、蹴鞠の場合はチームを組んでそのチーム内でボールをいかに長く蹴り続けられるか、または鞠を地面に下ろさずに蹴り続けて最初に地面に落としたほうが負けと言うルールです。
日本の場合は蹴鞠の伝統もあって西洋からサッカーが伝来した時も蹴鞠の一種として考えられていました。
そのためサッカーの和名は蹴鞠とほぼ同じように「球を蹴る=蹴球」となったわけです、明治の頃はまだサッカーも蹴鞠も未分化でした。
因みに現在の日本サッカー協会のシンボルマークは八咫烏をモチーフにしたものですが、これは毎年1月に「蹴鞠はじめ」を行う下鴨神社の祭神の化身とされています。
古代の日本人の精神を現代サッカーでも受け継いでいると言えますね。
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黎明期の日本サッカーでも奇跡が?
戦前の日本サッカーは黎明期と言われていますが、この時代にも富国強兵の政策の一環として様々な国内大会が始まりました。
1918年には全国高校サッカー選手権大会の前身となった日本フートボール大会、さらに1921年には元日決戦で有名な天皇杯の前身となったア式蹴球全国優勝競技大会が開催されるなど、現在でも開催される国内大会の基礎が出来上がっていたのです。
さらに国際試合に関しても戦前の頃から多く出場していました。
中でも有名なのが1937年のベルリンオリンピックです。
この大会では何といっても優勝候補の一角だったスウェーデンを破ったことが世界に衝撃を与えました。
ベルリンの奇跡と呼ばれていますが、この大会を機に日本代表のユニフォームの色が青になったと言われています。
サッカー日本代表のユニフォームの色が青になった理由とは?
JSLを経てJL発足へ!
日本初のプロサッカーリーグとしてはJリーグがそれ以前にも既にJSLというサッカーリーグが1965年に発足しました。
このJSLは日本サッカーの競技レベルを向上させる目的で発足させたリーグで、アマチュアも含まれているという点ではサッカーが最初でした。
しかしアマチュア競技と言いつつも、試合の結果に対して選手に報酬を渡すチームも出始めて、1985年からJFAでは事実上プロ選手としての登録を認める形になりました。
また観客動員数や国内サッカーの知名度の低さ、さらにスタジアムの数や日本サッカーのレベルの向上という意味でもアマチュア競技では限界があるとされ、結局本格的なプロリーグへと移行せざるを得ない形となりました。
こうしたプロセスや背景から誕生したリーグがJリーグです、プロ野球の発足から実に73年後のことでした。
発足当初こそ僅か10ほどしかなったクラブの数も、現在ではJ3も合わせると57クラブも参加していて規模の拡大ぶりを改めて実感します。
遠かったワールドカップまでの道のり
Jリーグが発足して国内プロリーグの誕生と言うことで国内サッカーの発展に大きな節目には至りました。
しかしそれでも最大の国際大会であるワールドカップへの出場を未だに果たしたことはありませんでした。
日本が悲願のワールドカップ初出場を果たしたのは1998年のフランス大会ですが、実はその前のアメリカ大会もあと一歩と言うところで出場できていました。
1993年10月のワールドカップアジア最終予選、日本は最終節のイラク戦で勝利すれば自動的にワールドカップ出場が果たせたのですが、試合終盤間近で同点ゴールを決められ無念の敗退となりました。
これが有名なドーハの悲劇です、サッカー日本代表の長い歴史の中でこれを語らない訳にはいかないでしょう。
今の若い世代は知らないでしょうが、当時の日本としてはワールドカップは本当に夢の舞台で出場するだけでも巨大な壁として立ち塞がっていたのです。
その壁の大きさを改めて実感することになったのがこのドーハの悲劇と言えます。
後半のロスタイム、試合終了まで後1分くらいの所でイラク代表のオムラム・サルマン選手に同点ゴールを決められ歓喜から一転悲劇へとなりました。
ピッチにいた選手のみならずテレビで実況解説していたアナウンサーや出演者らも呆然としていて、放送事故が起きたのかと間違えるほどの衝撃的な出来事だったようです。
残り後僅かと言う所で逃してしまった、サッカーの神様はそう簡単には微笑んでくれなかった。
改めて国際試合の怖さや厳しさを思い知った出来事でした。と当時の日本サッカー協会の川淵強化委員長も語っていました。
日本代表がこれからも世界と互角に渡り歩いていくためには、こういった体験をずっとしていかなくてはいけないというメッセージがこのドーハの悲劇には込められているのです。
その悔しさをバネにして日本代表は奮起したのか、4年後の予選では見事に初出場を果たしました、これがジョホールバルの歓喜です。
また最近では2016年にドーハで行われたアジアU-23選手権準決勝でU-23日本代表がイラク代表と対戦して後半のロスタイムに決勝点を奪ってリオ五輪の本大会出場を果たしました。もうドーハは悲劇の地ではなくなりましたね。
まとめ
今回は日本サッカーの歴史について解説してきました、長くなりましたが最後までご覧いただきありがとうございます。
最近では日本のサッカーのレベルは着実に上がっていると言えます、ヨーロッパサッカーでも多数の日本人選手が活躍していますからね!
日本がワールドカップへの出場を当たり前のように果たせるようになった昨今では日本代表の昔の姿や弱さを知らない世代が増えましたね。
改めて言いますが先人達の偉大な活躍があってこそ今の日本代表の強さがあるのです!
残す目標はワールドカップの優勝くらいですが、優勝どころか未だにベスト8進出すら果たしたことはありません。
2018年のワールドカップは直前になってハリル監督が解任されるという騒ぎが起きてかなり不安です。
この時点でもう好成績は期待できそうにありませんが、日本サッカー協会の監督選びの基準が本当に怪しいですね(;-_-)
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